中世哲学

中世哲学の特徴、注解、課題などを簡単に説明しています。

権威:それを迂回するための再解釈と文脈転換

中世の哲学者は権威が完全であることを望んだが、権威がより最近得られた知識や自分たちの考え方と合致しないという問題に直面した。中世哲学のテキストでそういう例は権威ある文書、例えば聖書やアリストテレスの引用にある。権威と、そして権威の間で一致を形成する方法はそれらの再解釈であった。これは著者がどう考えていたかを議論し、今の議論と一致させるという方法である。例えば、モーシェ・ベン=マイモーンは、女性のいない島で育った少年がどのように子どもが孕まれ、生まれるのか想像するのに困難を覚えるのと全く同様にアリストテレスはひどく限定された範囲の経験しか持たなかったため彼が実際に持っていた以外に物の起源の説明を持てなかったのだと主張している。再解釈することに加えて、中世の解釈者たちはおそらく元の文脈から外して与えられた引用を理解していた。例えば、トマス・アクィナスアウグスティヌスを文脈を無視して引用し、アウグスティヌスが実際にはより古くあまり技術的でない意味で「学問 scientia」という言葉を使っていたのを引用し、神学はアリストテレスの『分析論後書』にみられる学問と同様に「学問 scientia」であると主張した。リールのアランは経験主義者としてのパウロの「神の不可視なものは目に見える被造物によって知られる」という主張を支持したがそれは別の文脈でのことであって、それによって問題となる知識が世界ではなく信仰に関する「知識」になった。同様に、トマス・アクィナスグレゴリウス1世による七つの大罪という概念における罪の分類を引用して支持したが、グレゴリウス1世による分類をアクィナス自身による罪の概念の構造化の方法の下位においた。こういった主張する文脈の変化は必ずしも不誠実さによってなされたわけではない。彼らの互いに一致しない権威と自身の考えを一致させる戦略はおそらくヘルメス主義によるものである。ヘルメス主義の基本的な前提はこれらの権威は皆唯一の真理の部分を表そうと努めているというものである。だから、新しい概念や知識がそれを要求する際に権威筋の考え方を新しい文脈におくことは曲解とはならない。シラノは権威筋同士の間での緊張やさらには公然たる矛盾の多くは、問題を決める編集者や批評家、精通者たちがそういった権威のある主張を互いに反目し合っている状況よりもむしろ彼らの歴史的・文化的文脈におけば消えるだろうがしかし、これは権威筋から規範的な地位を奪うので彼らはそうせず、公平な決断が歴史的・文化的文脈のなかで解釈されてもはや拘束力を持たないようにそれを不確かなものにしていると述べた。シラノは12世紀・13世紀の西方ラテン世界における、相対主義の主張によってそれらを全て叩きのめすよりもむしろ討論や論争に縛られつつ完全な権威を作り上げるという債務を望んだ[46][47]。

 

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中世哲学の注解

ここで述べる注解とは『エイサゴーゲー』のような独立して一冊の本にまとめられた注釈書のようなものではなく、教科書の欄外・行間にある余白に書き込まれるもののことである。そういった注解が書き込まれる理由は大きく分けて三つある。一つ目は生徒たちに説明しようとして教師が行うもの、二つ目は教師の講義をメモしておこうとする生徒が行うもの、そして三つ目はテクストに対する自分の解釈を書き留めておこうとする独習者が行うものである[44]。あるテクストの注釈書を執筆しようとする研究者がそのテクストの写本で注解の書き込まれているものを用意し、それに書き込まれた注解の中から自分の関心のあるものを選んで自著に入れるということも可能だった[44](上述のオセールレミギウスによる注釈書はそうして作成された)。また、あるテクストのある写本に書き込まれた注解を自分の写本にコピーするということが非常に頻繁に行われた。そして、必ずしもコピーは完全ではなく多くの場合少しずつ異なっているものなので、同じテクストの写本は家族的類似によってごく大雑把な系統関係を示すことができる。同じ事情から、大多数の写本は複数の人物の注解を含んでいるうえにその注解がコピーの大本となった注解を書き込んだ人物の考えたことを完全・正確に表しはいないということも起こった。さらに、注解に署名する人はめったにいなかったので、どの注解が誰に由来するのかを決定するのは難しいし、誰に由来するのかわかったところで少しずつ文面の異なる同じ注解のいくつものヴァージョンのうちどれがその注解者の考えを正確に表しているかも決定しがたい[45]。

 

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中世哲学の特徴

中世哲学は特徴として「神学的」である。イブン・スィーナーやイブン・ルシュドは除外できようが、中世の思想家たちは誰も自分を哲学者とは思わなかった。彼らの関心領域も神学的であった。彼らにとって、哲学者とはプラトンアリストテレスのような古代の異教の著述家のことであった[4]。しかしながら、中世の著述家たちの神学的研究は古代の哲学者の考えや論理的な技法を利用して難解な神学的問題や教義の要点に取り掛かった。トマス・アクィナスはペトルス・ダミアニに追従して哲学は神学の婢(「ancilla theologiae」)だと主張した[5]。
中世の哲学者たちの研究に通底する三つの原理として、「ratio」として知られる、真理を発見するために論理学、弁証術、分析を用いること、「auctoritas」、つまり特にアリストテレスやその他の権威ある古代の哲学者への識見への敬意、「concordia」、つまり哲学の識見と神学的な教え・啓示を調和させるという義務[6]がある。
この時期最もよく議論された話題の一つに信仰と理性の対立がある。イブン・スィーナーとイブン・ルシュドはどちらも理性の側に立って研究した。ヒッポのアウグスティヌスは自身の哲学的探求に神の権威の範囲を超えさせることは決してしないと述べた[7]。アンセルムスは彼が部分的に信仰への攻撃とみなしたものに対して、信仰と理性の両方を考慮に入れたアプローチによって信仰を擁護しようとした[8]。信仰/理性の問題にアウグスティヌスの出した結論は(1)信仰し、そして(2)理解しようとするということであった。

 

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